六等星の瞬き

ひっそりと本(児童書)について書きます。たまに雑記も。

コロナ禍の「終着点」って何だろう?

「緊急事態宣言」に2度目はないと思っていました。1回限りの切り札という認識だったから。

新型コロナウイルス感染症の混乱が本格化して約1年。生きていれば天災や感染症の流行、国際情勢の悪化になどに直面することもあるという覚悟はありました。でも「家にいて外に出ない」、「マスク無しで人と話すな、距離を取れ」etc.を推奨される日常は想定外です。そして感染症対策を大義名分に制約も罰則も喜んで求めてしまう声が少なくないことにも心底驚きました。

この秋冬の陽性者・感染者増加、2021年の幕開け、緊急事態宣言を経て、「自粛・感染対策が目的化しているのでは?」という疑問が生まれました。そこまで感染対策に熱心でなさそうな人の「コロナが終わったら~」はいつを指しているのだろうという思いが更に強くなりました。

2019年12月ごろの新聞は「武漢の海産市場で新型肺炎」「ヒトヒト感染なし」と報じていました。そのとき「10年前の新型インフルみたいに混乱しないといいなあ」と思っていたけれど、たった1年で想像を超えた奇妙な社会になり、唖然としています。

新型コロナウイルス感染症は長期的な検証がされておらず、楽観視は禁物と思います。手洗い・うがい、場面に応じたマスクの使用等を基本とした対策や、軽率な行為は慎む等の意識は必要と考えますが、「感染しない・感染させないこと」が社会の最大目標になるのには違和感を覚えます。

この1年間で耳を疑うニュースや目を疑う光景が多く、その疑問を書き連ねただけの記事です。

「不要不急」の外出? 家にこもるのが最善策か?

2020年4月、「不要不急」概念に困惑しました。世の中の多くのことは人の不要不急やちょっとした思い付きによる消費行動で回っていると思っていたから。「不要不急」は他人の画一的な判断で決まるものでないと思っていたから。

誰かの「不要不急」は他の誰かの「必要」で、まさしくそれを職業にしている人もいます。それを止めにかかって大丈夫なのか? この自粛が終わったころ、色んな場所が無くなっているのかもしれない。それで潰れてしまう人たちはどうやって生きていけばいいのか。膨大な数になれば、社会全体でも対応しきれなくなる。今は無傷な人にも波及して影響が出る。数年後は自分も路頭に迷っているかもな…という強い危惧を持っていました。

肝心の健康に関しても免疫力だとか、メンタルの安定だとか、そのあたりは無視でいいのか? と感じていました。

過剰なまでの対策、一方で謎対策

あれよあれよという間に飛沫防止シートやマスク着用が日常の風景になり、施設に入るのにも消毒や検温を実施されるようになりました。

感染対策と並行して、テレビを中心としたマスメディアではクラスター報道。いつしか感染=悪の風潮が醸成されました。初期段階の北海道ではクラスターと濃厚接触者を発見して隔離という手法が効果を上げたといいます。対策自体は防疫の基本なのでしょうが、クラスター報道に関しては百害あって一利なしだと思います。それを知って何になるの?という純粋な疑問。特に地方のニュースはトップニュース扱いで個人が特定されかねないような感染者報道がされていて驚きます。

初期のライブハウス吊し上げから始まり、感染するのは気の緩みという雰囲気が覆うなかでは、万が一の時、できる限りの感染対策を講じていたという事実こそが重要で経営を守るための措置なのでしょう。だから多くの企業、施設で万全な対策が進められていきます。けれど、一度作り上げたルールは解除しにくいものです。新型コロナウイルスのリスクがゼロになることは考えにくいのに、本当に解除できる日が来るのでしょうか。解除しにくいルール、それを長期間続けて他の問題はないのかということを熟考すべきではないでしょうか。

例えば、施設に入るのにマスク、消毒。普通に考えて、四六時中鼻と口を覆って自然な呼吸をしないことは良いとは思えないし、不織布だと化学的な匂いがするときがあります。消毒に関しても、コロナ前からエンベローブのあるウイルスには有効だけれども、常在菌を殺す為、やりすぎは禁物といわれていました。

事業の持続性で考えても、イベントの収容人数を抑えると収益は下がり、飲食店で徹底した対策を進めると本来の会食の楽しみが損なわれていくという面があります。各業界が存続のために、長期的に見れば自縄自縛に陥るような取り組みをせざるを得なくなっているこの状況は危機的だと思います。

 

一方で「謎対策」。感染予防を第一に考えたとしても逆効果なのではと思う対策のことです。

例えば、複数台ある券売機を数台使用禁止にして、ソーシャルディスタンスを取らせている光景を見て「?」となりました。むしろ順番待ちの人で混雑し喋っている人も多いのだから、全数使用して速く回転させた方がよくないですか…?スーパーでも飛沫防止シート+マスクで声が聞こえにくくなり、かえって大声でやり取りせざるを得ない状況を目にします。

感染対策の下、人間性を失っていない?

「距離を取れ」「接触するな」「近づくな」「素顔で会話するな」「楽しく話しながら食べるな」「歌は危険」「接触するスポーツも危険」etc.

これを地で行くのが今の対策、1年以上も続けるには無理がありませんか。感染対策という点を最大限重視するのならば、「過剰」ということはないのでしょう。けれども人間の社会生活という点を考えれば、マイナス面にも目を向けるべきだと思います。

今良くないとされていることは人間として当たり前のこと。個人差はあれど、心身の健康には有用な行動だと思います。未知の新型コロナウイルスの脅威というのなら、それに伴う対策も未知の弊害を生み出しかねません。

どの世代にとっても良いこととは思えませんが、コロナ禍のスタンダードを生まれた瞬間から経験する子供や小中学校で厳しく指導される子供への影響は未知数です。親の方針による管理の厳しさ次第では同世代間で分断しそうと感じてしまいます。

夏ごろは高齢者の合唱団や昼カラオケクラスターが槍玉にあげられていましたね。誤嚥性肺炎の原因となる嚥下機能の低下を防ぐために発声や歌が有効といわれていたから、高齢者施設や高齢者の趣味としてカラオケ等が取り入れられてきました。

重症化しやすいから守るべきとされている高齢者に関しても、外出や気晴らしを制限され、自由に人に会えないのは認知症や身体機能の更なる悪化の危険が高まりそうです。重症化リスクが高い高齢者中心に自粛せよという考えも合理的なようでいて、様々な可能性を勘案すると最善とは言い切れません。

新型コロナウイルス感染症から身を守れれば何でもよいわけではないと思うのです。このようなことは昨年4月から感じていたけれど、最近、様々なところで対策が強化されている印象です。

自粛が至上主義の考えは何を終着点にしている?

昨年の春の「自粛。日本でもロックダウンを」という意見はまだ理解できます。私だってコロナのない社会に暮らしたいです。ただ、初夏に一度抑え込んだように見えても、経済活動の再開や季節的要因で陽性者・感染者が増えてきた。「ゼロコロナ」という言葉を聞くことがありますが、人間が冬眠でもできない限り、一度広がった病原体の撲滅は不可能でしょう。

人類が撲滅できた唯一の感染症天然痘は分かりやすい皮膚症状が出ない限り、人に感染させる力はありません。人間以外に感染せず、変異もしません。その他、劣悪な衛生環境に起因していたような過去の感染症であれば、特定の要因を解決すれば撲滅に近い状態にできました。

対して人間以外の動物も媒介し、感染経路が特殊でなく、発症前でも感染力があるとされている新型コロナウイルス。人間の社会生活や弊害という点を無視した対策に傾かざるをえません。

また、陽性者・感染者増加の度に緊急事態宣言*1を繰り返すのは現実的でないと思います。エンタメ関係は勿論、一般的な企業の事業やイベントを主催するにあたっては数か月前から計画を立てて準備し、このご時世だから感染防止対策を講じて…という前段階があります。そこへきて「緊急事態宣言!」とされるとかなりの痛手です。開催したとしても「不要不急の外出を避けて」といわれる中、来場者は二の足を踏むだろうし、万が一何かあれば非難が殺到するのは目に見えています。企業にも個人にも活動に対して心理的な制約がかかり、疲弊していく恐れがあります。

まあ、濃厚接触者を追ってPCR検査をしたり、無症状陽性者を感染者と報道したり、連日のマスコミの特集が無くなれば社会的には収束するかもしれないですけど…。

新型コロナウイルスに対する考え方は千差万別

日本人のコロナ禍の経験日数はほぼ同じ筈なのに考え方が千差万別すぎて、人間の多様性を実感しています。この差は暮らしぶり、習慣、価値観、人生観、果ては死生観に密接にかかわっていると感じます。

例えばの話ですが、制限や自粛により打撃を受ける学業や職業、生きがいを持っている人からすれば「冗談じゃない!」となるし、特に生活に影響が出ていない人(もしくは過酷な医療現場の人)からすれば「何で自粛くらいできないの?だから感染が収まらない」という感情になりそうです。

皆の心の中に「対策によって失われれるものの重さ - 感染によるリスク」の天秤があるのだから、個人個人で相違があるのが当たり前。感染リスクにしても「数あるリスクのうちの一つ」と捉えるか否かで度合いが変わってきますよね。考えの異なる意見に対して、頭ごなしに「間違いだ!」と糾弾して押し付けるのは不毛です。

ただ実際問題、医療機関や医療従事者に限界がでてくるので、コロナ以外の病気を含めて治療を受けたい人達の希望が叶いづらくなります。そのバランスを取って個人が行動に気を付けることは大切ですが、果たして自粛一辺倒で医療の問題を解決できるのかとも思います。

個人の考えの相違に拍車をかけるのがTwitterをはじめとしたSNS。考えの似た人同士で情報を共有するというのは、一定の傾向がどんどん煮詰まっていく危険があります。集団の属性の違いによって、本当に同じ時空に生きてるのか⁈ というくらい、情報や論調が異なっていて驚きを禁じ得ません。それは多分、双方が思うことなんでしょうね。その属性が違う人同士では、物事のとらえ方の前提・根底から異なるので「そりゃあ分かりあえんわ…」と実感することがあります。

実際のところは新型コロナウイルスに興味を持っている人は少ない?

世論調査やネットニュース等、自粛を是とする考えの人が大半のように錯覚します。ですが実社会では普通に仕事して、普通に会話して…という人がほとんどで、感染症への恐怖は程々だけど諸々の制約は仕方ないよねと受け入れている印象。新型コロナウイルスそのものに関してもあまり興味がなさそうに見えます。なぜ、対策によって失われる経済、文化、教育、機会の喪失等を気に掛けないのだろうかと感じることがあります。特に同世代の「コロナが終わったら~」という言葉は本当に謎。

2021年、これからどうなるのか?

私の考え方はこの記事にある通りですが、ここまで読んで「何言ってんだ」と感じる人もいるでしょう。自分は素人ですし、ウイルスを熟知しているわけでもありません。だから自分にとって都合の良いデータを引用したり、識者の主張に頼ったりするのはかえって危険だと感じ、主観的な文章にしています。

この社会が何処に向かっていくのか。1年後はどんな状況なのか。つらつらと書いたような自分の考えは現実の社会の行く末とどのくらい合致するのか、乖離していくのか。何が正しいのか。こんなに将来の状況が分からないのは初めてです。ここに書いたこと以外にも疑問は沢山ありますが、もう少し冷静な社会になってほしいですね。あと、今の洒落にならない閉塞感と同調圧力には空恐ろしさを感じます。

 

お読みいただきありがとうございました。

 

*1:2021年2月13日施行「新型インフルエンザ等対策特別措置法等の一部を改正する法律の施行に伴う関係政令の整備に関する政令案」では「まん延防止等重点措置」が盛り込まれている。

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